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更新日:2024年3月8日
大和村の名前の発祥は古く、大和朝廷の時代(4〜7世紀)に遡るとも伝えられています。「浦内沿革誌」には、「大和時代、この地に大和人が住んでいた」とあります。中国と朝廷を結んだ遣唐使船は、食糧や水の補給のために奄美に寄港しており、ここ大和村も大型の船が泊められる良港があり大和からの船や人々が立ち寄っていたと言われています。その場所が現在の大和浜集落です。1572年(隆慶6)年の琉球王からの辞令書中には「屋まとはま」という地名が現れ、薩摩藩統治下には、焼内間切の行政区分のひとつとして現在の大和村にあたる地域に「大和浜方」が置かれました。1908(明治41)年4月の島嶼町村制施行にともない村に改められた際に、「大和浜」から名前をとって「大和村」が誕生しました。平成30年は、大和村制施行110周年を迎えました。
さて、ざっくりとした年表で大和村の歴史を見てましょう。奄美の歴史は不明な点も多く残されています。
年 |
できごと |
---|---|
2億1000万年〜7000万年前 | 奄美は深い海底にあった |
1500万年前 |
琉球弧が陸地になる、南方から野生動物が渡来する機会あり (氷河期と間氷期によって3度ほど陸地化と海面上昇を繰り返す) |
旧石器時代 (人類が日本列島に渡ってきた頃〜1万6000年前) |
笠利町や伊仙町からこの頃のものとみられる遺跡が発掘されている |
縄文時代(1万5000年前〜) |
海面上昇に伴い砂丘が形成、砂丘に立地する遺跡が奄美諸島でいくつも発掘。サンゴ礁に適応した漁撈活動が活発化し、海岸砂丘に貝塚遺跡が多数形成された。奄美諸島では稲作農耕文化も古墳築造文化も受容されていないので、弥生時代と古墳時代は認められない。 |
7世紀代 |
律令国家ができる。大和と琉球弧で、南海産の大型貝類の交易「貝の道」が生まれる |
657 |
日本書紀に初めて「海見(あまみ)島」と記述あり |
682 |
タネ人(種子島)、ヤク人(屋久島)、阿麻弥(あまみ)人、朝廷より禄を賜う |
750 |
浦内湾は遣唐使船南島航路の寄港地となり、このことが大和の名のゆらいにもなっている。(~894年/奈良、平安時代) |
1466 |
奄美全島が琉球統治に入る。大和村は屋喜内間切大和浜方となる。 |
1501 |
琉球王ノロ組織樹立。 |
1529 |
和家の祖、笠利間切の宇宿大親に任ぜられる。 |
1611 |
直川智(すなおかわち)が清国よりキビ苗を持ち帰り戸円磯平に試植。 |
1613 |
道の島全島薩摩藩統治始まる。統治は琉球時代の間切を適用。 |
1600 |
「琉球おもろさうし一四巻」に国直の歌が出てくる。 |
1690 |
直川智の孫、嘉和智が藩の命により製糖技術習得のため琉球へ派遣される。 |
1698 |
嘉和智が戸円磯平にて黒糖120斤製造する。 |
1720 |
田畑佐文仁が福元盆地の開拓犠牲者を弔う石碑(山の神)を建てる。 |
1745 |
薩摩藩への上納税が黒糖になる。 |
1822 |
今里の漁船が漂流。漁師3名がオランダ船に救助され長崎へ送られた後、薩摩藩へ引き渡される。 |
1851 |
薩摩藩が調査した大和浜方(国直~今里)の人口3,417人。 |
1862 |
桂久武が薩摩藩守衛方として大和浜に滞留。西郷の盟友で後に藩家老となる。西郷とともに城山にて戦死。 |
1869(明治2年) |
思勝の尾神山麓に高千穂神社を建設。 |
1882年(明治15年) |
糖業の創始者である直川智の霊を祀るひらとみ神社を高千穂神社内に建設。 |
1908(明治41年) |
島嶼町村制施行に伴い大和浜方を大和村と改め、今里から国直までの11集落で行政が始まり現在にいたる。 |
1941(昭和16年) |
第二次世界大戦が勃発。 |
1945(昭和20年) |
第二次世界大戦で日本は敗戦。 |
1946(昭和21年) |
奄美大島は米国海軍軍政府の管轄となる。 |
1948(昭和23年) |
日本の新自治方を取り入れ直接選挙により村長、村議会議員を選出。 |
1952(昭和27年) |
米軍政府の援助と村民によって、自家発電(火力)工事が完成し、送電を開始する。 |
1953(昭和28年) |
奄美群島が祖国復帰。 |
1954(昭和29年) |
奄美群島復興特別措置法が公布される。 |
1956(昭和31年) |
名音川を利用して村営の水力発電所を開設する。 |
1961(昭和36年) |
旧名瀬市から大和浜までのバス運行が開始される。 |
1964(昭和39年) |
大棚に大和村国民健康保険診療所を開設する。大棚、今里に簡易郵便局が開局。 |
1965(昭和40年) |
今里隧道が開通。 |
1968(昭和43年) |
名音トンネルが開通。宇検村回りの県道開通。 |
1970(昭和45年) |
旧名瀬市から今里までのバス運行が開始される。 |
1972(昭和47年) |
現在の役場庁舎が完成。 |
1977(昭和52年) |
宮古崎に通ずる遊歩道、休憩所、駐車場など建設。 |
1981(昭和56年) |
スモモ集荷施設、集荷場が完成。村体育館が完成。 |
1984(昭和59年) |
国直トンネルが開通。ひらとみ神社が再建される。 |
1985(昭和60年) |
特別養護老人ホーム「大和の園」が完成、開園。 |
1991(平成3年) |
奄美フォレストポリス整備事業着工。 |
2008(平成20年) |
大和村制施行100周年 |
2018(平成30年) |
大和村制施行110周年 |
ユネスコでは、世界の言語で消えゆく言葉を絶滅危惧語と呼んでいます。日本において、近い将来消えゆく言葉、絶滅が危惧されている地域は3ヶ所ありますが、最も極めて深刻と指定されているのがアイヌ語で、20年後は消えるだろうと言われています。次に30年後に消えゆく言葉が、沖縄県八重山方言で重大な危険地域と呼ばれています。そして、50年後に消えゆく危険地域に奄美語が指定されています。
奄美には、日本の古語がそのまま残っていると言われています。1185年に約680人の平家一族が来たことにより、日本古来の和歌や音楽が伝えられたと言われています。
昭和40年代からのテレビの普及や学校での方言の使用禁止により、急速に方言離れが進んだと言われています。平成30年現在、奄美語を自由に使って会話できるのは50才以上の年代です。奄美語を話せる人でも、周囲に合わせ標準語を使っており、普段から使わないとどんどん忘れていってしまうため、なかなか次世代への引き継ぎがなされていない状況です。大和中学校では、郷土の言葉を伝えるため年に2回の方言学習を行っています。
奄美語で語られる昔話をご紹介します。
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