ここから本文です。
更新日:2022年8月31日
奄美大島の正月は家族全員が正装で床の間に正座し、厳粛な雰囲気の中での朝三献(あささんごん)から始まります。初めにムチヌスィームン(餅の吸い物)、次にサシミ、ウヮーヌスィームン(豚の吸い物)で食します。餅の吸い物には餅、椎茸、昆布、魚、卵が入ります。刺身はアカマツ(ハマダイ)などの白身魚が二切れほど。豚の吸い物は塩豚の他、猪や鶏も代用されています。食事が済むと、上座についた主人が家族ひとりひとりに「今年も健康で頑張るように」と言葉をかけながら高膳の盃に酒を差し出します。飲み干すと塩を絡めたコンブとスルメ(もしくはシイラ)の干物を両手で授かり一連の儀式は終了。うやうやしくも身の引き締まる古き良き風習です。
1月2日は二日正月と言いセックノヨエ(大工の祝い)やフナヨエ(舟祝い)やを行います。
大工の家では大工道具を床の間に並べ、三献を備えます。漁師の家では年末のうちに船の船首に門松(松・竹・ゆずる、うらじろ、あつこ)を飾っておき、1月2日に自宅で“三献”をしたあとに家族でふなよえに行きます。酒と塩で船体を清め舟神様に一年の航海安全と豊漁を祈願します。
また、農業に従事する人たちは畑や山に形ばかりの作業を農耕始めを行うそうです。
ナンカンゼックは(七日の節句)は鹿児島本土の伝統行事である七草祝いと同じく、1月7日に子供の無病息災を祈って雑炊を食べます。鹿児島の七草粥はセリナ、ナヅナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ等の春の七草ですが、島のナンカンジョーセ(七日の雑炊)はクゥムィ(米)、シューツケウヮ(塩豚)、ドーコネ(大根)、ウム(里芋)またはクゥブ(昆布)、ナバ(椎茸)、オヤシ(大豆のモヤシ)、シンムトゥ(小ぶりのネギ)またはフル(ニンニクの葉)の七種の具の入った雑炊です。数え7才になる子ども達が鍋や重箱を手に親戚や近所の家7軒をまわり、お椀一杯ほどのジョーセを貰い歩きます(最近ではジョーセと共にお祝い金が添えられることも多いです)。また、ナンカンジョーセは7歳になるまで神様に見守られている子どもがジョーセを食べることで神様から離れるのだといわれ、ジョーセを食べることには厄払いの意味があり健康に育つようにという願いが込められています。
旧暦の1月16日は山の神祭りです。16日はアクニチとかステビとかいわれ、山の神様が下りる日なので、山には行かず、山仕事も休みました。特に、正月の16日は盆の16日とともに、一年中で最も悪い日だといわれています。
サンガツサンチ(3月3日)はウナグヌセック(女の節句・桃の節句)ですが、春先の大潮にあたるためイショアスビ(磯遊び)の色合いが濃く、老若男女浜へ降りて潮干狩りをします。この日潮に浸からないとクーフ(ふくろう)になるといわれ必ず行かなくてはいけません。以前は、会社はもちろん学校も午前中で終了し、家族、仲間達と午後から磯遊びを楽しみました。また、サンガツサンチにはフツィ(よもぎ)とサタ(黒糖)、ハヌス(薩摩芋)、ムチグムィ(餅米)を練り合わせてムチガシャ(クマタケランまたはゲットウの葉)で包み蒸したフツィムチ(よもぎ餅)を食べる習わしがあり、家族や友人達と弁当や飲み物、フツィムチを手に浜に降り酒宴を開きサンガツセックを楽しみます。
ゴガツゴンチ(5月5日)はインガヌセック(男の節句・端午の節句)で、魔除けのために軒先にヒキショーブ(菖蒲)とフツィ(よもぎ)を吊します。以前はガヤマキと呼ばれるチガヤに包んだ餅を床柱に飾ったといいますが、現在では名音集落でわずかに残るに過ぎません。また、ゴガツゴンチのセックには鹿児島本土と同様にアクマキを食べる習わしがあります。
七夕の竹はタナバタソー(七夕竿)、タナバタデヘェ(七夕竹)といい、なるべく丈の高いものを使うことになっています。それは、盆の十三日にソーロガナシ(祖先)がいらっしゃいますが、七夕はそのソーロガナシがあの世から旅立つ日で、ソーロガナシが帰ってくる目印になるようにという心使いからです。なのでソーロガナシの迎え旗であるタナバタソーは盆の十三日まで立てておきます。
また、七夕に降るタナバタキリャシアムィ(七夕切りの雨)は吉兆とされ、特にタナバタソーの飾りがいっぺんに落ちるとその年は豊作間違いなしと喜ばれました。
大和村では旧暦7月13日からお盆となり、内容はおおむね次のとおりです。
ミハチガツと呼ばれる奄美大島の八月行事は、アラセツ・シバサシ・ドゥンガからなり、先祖祭りとも火の用心祭りともいわれます。ミハチガツから豊年祭にかけて八月踊りが行われますが、アラセツ・シバサシがヤーマワリ(ヤーツキ)といって各家々を回るのに対し、ドゥンガや豊年祭は公民館前の土俵を囲んで踊ることが多い。
アラセツは旧暦八月最初の丙(ひのえ)に行われ、家庭によっては床の間の前にテーブルを置き、位牌を仏壇から下ろして祭壇を作るお宅もあります。
思勝集落は八月踊りが盛んに行われていましたが、人口の減少や生活様式の変化により一時期存続が危ぶまれました。そこで集落の青年団を始めとする若い世代が伝統文化の継承のため定期的に練習を重ね踊りを復活させています。
以前はアラセツとシバサシに集落全戸を回って踊っていましたが、現在は運営の都合からアラセツとシバサシの間の土曜日に開催され、トネヤを皮切りに集落内3カ所で踊ります。
踊りの合間にお花(寄付)の披露が行われると、青年達がキトバレ旗を手に勢いよく周回する「花車」で祭りを盛り上げます。
シバサシはアラセツから七日目の壬(みずのえ)に行われ、ススキを家の軒先に挿すことからこの名称があります。早朝から親戚中の墓をまわり、シーバ(イタジイの葉)を挿して拝む風習もあります。
ヤーマワリで八月踊りを踊りますが、集落を二つに区切りアラセツとシバサシで踊り分ける集落もあります。
一年の農作物の収穫を祝うと共に集落の無病息災に感謝する行事で、奉納相撲や余興、八月踊りで楽しむ集落最大のイベントです。
豊年祭はイズミ・コー・タキ・キュッキョと呼ばれる水源地(集落により異なる)から相撲の力水を汲むことから始まります。力士たちはトネヤやテラで祈願した後フリダシと呼ばれる行列で土俵へ向かいます。「ヨイヤー!ヨイヤー!」という威勢のいい掛け声とホラ貝を吹き気勢を上げる行進は祭りの雰囲気を盛り上げます。
相撲は前相撲と呼ばれる青年団2名の取り組みから始まり、個人戦や集落対抗戦、兄弟親子相撲、乳幼児の初土俵入りなど様々な対戦が行われます。取り組みの中頃になるとナカイリと呼ばれる周回があり、料理を手にした力士や仮装した婦人会や老人クラブが参加し滑稽なしぐさに観客から歓声があがります。土俵を周回した料理は各テントへ配られ、里芋の煮物や、バカイカ煮付け、野菜のかき揚げなど集落ごとに異なる季節の料理が参加者に振る舞われます。
豊年相撲の取り組みが終わると、夜には土俵を囲んで八月踊りが行われます。八月踊りは集落民のみならず郷友会などの出身者や関係者が大勢参加し集落を盛り上げます。近年は八月踊りの伝承のため青年達が数日間稽古を積んで本番に望みます。
以前は旧暦の8月15日に行われていましたが現在は運営の都合から直前の日曜日に開催しています。
ドゥンガはシバサシの次にくる甲(きのえ)子(ね)に行われ、何月にあたるかはその年々によって違いますが旧暦の十月になることが多い。
この日は改葬のためにある日、ジーアラサンヒ(地面を荒らさぬ日)といわれ、地面を耕したりは絶対にしてはいけないとされています。
また、翌日(シティドゥンガ)はフシビル(一番悪い日)なので何もしてはいけないという。今里では他の集落に行ってもいけないと言い、「ドゥンガの旅はするな」と伝えられています。
大和村には11の集落があり、豊年祭は八月十五日を祭り日とする「十五夜豊年祭」と、九月九日を祭り日とする「クガツクンチ」の二日に別れます。
十五夜豊年祭を行うのは津名久、大和浜、大棚、大金久、戸円、志戸勘、今里の七集落。クガツクンチを行うのは国直、湯湾釜、思勝、名音の四集落。いずれも平日の開催では運営が困難なため、直近の日曜日に引き寄せて開催しています。
画像は国直集落クガツクンチで行われた奉納相撲。乳幼児から青壮年団まで力のこもった取り組みが繰り広げられました。
クガツクンチ(旧暦9月9日)にはテラやトネヤまたは海岸で集落のガンノーシ(願直し)、ガンタテ(願立て)が行われます。
ガンノーシはノロと呼ばれる巫女が去年立てた祈願に感謝しその願いを解く拝みをし、ガンタテは向こう1年間の無病息災を祈ります。
ムチモレ踊りは、湯湾釜集落が大火事に見舞われた際に田んぼの泥を投げて火を消したことから防火と無病息災を祈願していると言われ、振舞われるカシャ餅は消火の際に使われた田んぼの泥を意味するとのこと。スカーフや風呂敷で顔を隠した青年達が家々を周り庭先で踊りますが、八月踊りのように手足の動きに決まりはありません。集落の厄払いなので一軒も漏らさず家々を周り深夜まで踊り明かします。
大和村誌(大和村発刊)
大和村の年中行事(古典と民俗学の会 著)
奄美の暮しと儀礼(田畑千秋 著)
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください